【人物】<明治>大村益次郎

1867年 王政復古の大号令が発令され、1868年に明治天皇が大権を掌握された。
その際に伊藤博文は少なくとも天皇が国内最強の兵力を掌握することを、維新最重要の国策と断じた。

しかし、この提案は実現せず、

この実情を憂いて立ったのが大村益次郎であった。
大村益次郎は各藩の大名武士ともに頼るべからずと見た。
進んで、天皇の軍を特設して彼らを制する必要性を予測した。
新政府の兵部大輔(ひょうぶだゆう)となるや否や、直ちに1868年8月

京都に兵学寮を起こし
翌1869年に横浜に語学所を作り、
ついでに大阪に造兵廠を、宇治に火薬製造所、八幡に兵器庫を設けることにした。
(その検閲中に暗殺される。)

大村の構想はフランス式新陸軍を創設して
「先ず内乱に備え、後に自ら外寇に備える」にあった。

そのためには広く兵士を全国から集め、それを率いる将校を要請する必要がある。
そこでまず兵学校(のちの士官学校)を起こしたのである。

そうして、広く兵を集める道は、四民平等の国防の義務を果たす思想に基づいて徴兵制を実施しようと考え、その調査のために西郷従道(つぐみち)と山縣有朋をフランスに派遣したのであった。

理由としては、武士階級の戦力にはつとに疑問をゆうし、それを1864年の長州戦争(下関戦争)において、つぶさに体験し、敗戦後、高杉晋作の下で「奇兵隊」を編成して成功した実験の持ち主である。

「奇兵隊」は武士の代わりに足軽や農民中から壮健剛強な者を募り、これに銃を与えて団体訓練を施した準様式軍隊であり、会津以下の戦闘では最強の威力を示した。

大村はこの奇兵隊の大規模なものを編成して新日本の「皇軍」を建設しようとしたのである。

彼の暗殺はその軽視された武士の憤りに発したのであった。

 

「軍閥興亡史 伊藤正徳」 より抜粋