寺子屋
江戸時代の寺子屋は日本全国に15000か所以上存在し、江戸の寺子屋の就学率は嘉永年間で70%以上、大阪は67%、全国平均で40%(当時のイギリスは都市部でも25%以下)だったと推定されており、これは世界でも驚異的な就学率で江戸時代は庶民でも高い識字率であった。
寺子屋は四書五経の素読程度は全員を対象に行われ、生徒の家の生業に応じて職業専門教育も行われていた。教科書は各種の往来物(書簡形式で綴られた教材)が使われ、大工の倅なら「番匠作事往来」というような個別指導で卒業後から就く職業の基礎知識を学んだ。 ※番匠作事往来 国文学研究資料館 蔵
「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理十五で末 決まる」 江戸時代の子供の学習の目安 9歳までに公的挨拶の習得と立居振舞の体得、素読 12歳で一家の主人の代筆を担える程度の事務作業能力の会得 15歳で経済・物理・科学などの森羅万象の理解 現在の義務教育より相当ハードであった。

寺子屋では五節句や天神祭には行事が行われ、生徒が寺子屋に食材を持ち寄って師匠と寝食を共にして語り合ったり、父兄が参観し、近所の者が見学する中で晴れ着を着た生徒に文字を書かせ披露する「席書」などが行われた。 ※「幼童席書会」歌川国芳

武士の子弟への親の教育は凄まじく、虐待とも取られかねないものがあった。わざと朝食を取らせなかったり、真冬に素足で師匠の元へ通わせたり、見ず知らずの家に所用を親から命じられたり。しかし町人と違い武家は高い胆力や精神力を身につけなければならなかったので、厳しい教育は当然の事とされた。
日本史を学んでいると「帯刀」が出てきます。帯刀とは大小二本差しのことですが、学校では「帯刀が許された」と教わるのですが、史実では権利ではなく義務であり、常時刀を帯びなければならない存在であることがわかります。庶民はそんな武士の窮屈さを笑っていた側面もあり面白いです。