江戸時代の森林調査(日本のSDGs)
我が国では、古来、森林資源を建築用材、薪炭等の燃料、農業用の肥料、家畜の餌等として利用して
きた。これに対し、森林整備の取組は、造林の記録が断片的に残ってはいるが、その多くは川岸や海岸
を守るためのものや、建物、街道、村落の周辺の防風や美観のためのものであった。
江戸時代を迎える頃になると、人口の集中した江戸や大坂等の大都市で城郭や寺院をはじめとする建築用の木材需要が増大したこと等から、全国各地で生活用、農業用、建築用等のための森林伐採が盛ん
に行われるようになり、森林資源の枯渇や災害の発生が深刻化するようになった。
このため、幕府や各藩によって、森林の伐採を禁じる「留山(とめやま)」が定められるなど、森林を保全するための規制が強化されたが、あわせて、公益的機能の回復を目的とした造林も推進されるようになった。
寛文6(1666)年に幕府が発出した「諸国山川掟(しょくさんせんおきて)」では、森林開発の抑制とともに、「川上左右之山方木立無之所ニハ、当春ヨリ木苗ヲ植付、土砂不流落様可仕事(川上の左右の山で木立ちのないところには、今年の春より苗木を植えて、土砂の流出が起きないようにすること)」として、河川流域の造林を奨励している。また、林政に関する優れた論者も現れ、治山治水の考えに基づく土砂流出防止林や、水源涵(かん)養林、防風林、海岸防砂林等が各地で造成された。また、大都市等での需要に応じ、木材生産を目的とする造林も行われるようになった。大都市に近く河川での流送の便が良い地域では、造林を伴う本格的な民間林業が発達し、現在に至る林業地が形成されることになった。
なお、17世紀の森林調査では、樹木の種類と本数を調べ上げるこの調査は、林守や材木商の重要なデータベースとなった。
我が国の森林整備は、国や地方の政策及び事業として行われる場合や民間林業によって行われる場合が多いが、過去には先人たちが公益を実現するために私財を投じて森林の造成を行った例も多くみられた。
例えば、日本海沿岸の庄内海岸(山形県)は、かつては草木が生えない荒れた砂丘地であり、北西の季節風による飛砂が、町や村や田畑に大きな被害を与えていたが、江戸時代に酒田豪商本間光丘らは、長い年月と膨大な労力を費やし、こうした厳しい環境でも育つクロマツ林の造成を行った。戦後の混乱の中で一時は荒廃したが、その後は林野庁によって造林が進められ、現在は市民のボランティア活動による協力も得ながら管理されている。
能代海岸(秋田県)でも飛砂の害が深刻であったが、能代の町人越後屋太郎右衛門によってクロマツの植栽が始められ、その後も秋田藩士栗田定之丞が農民の協力を得て植栽を行うなどの取組が進められた結果、現在は「風の松原」と呼ばれる我が国最大級の松原となっている。