米はどこから伝わったのか?

歴史の教科書(山川出版)には
「およそ2500年前と想定される縄文時代の終わり頃、朝鮮半島に近い九州北部で水田に夜米作りが開始された」

とある。
しかし、1989年、青森県八戸市の「風張遺跡」の住居跡からから7粒の米が発見され、これが約2800年前の縄文時代の後期から晩期にかけてのものであることが確認され、伝播の定説より500年も遡ることが明らかとなった。
ただ、水田、灌漑施設、農具などは発見されてない。これを遠くからの「贈り物」する考えもあるがこれは「運搬」という労力を知らない者の言い草で全くの誤りである。
この時代には道路も整備されてなく、運搬手段も未発達であった。南方から「米」をこの地に運搬できるはずもない。大変な労力まで使って運搬する可能性は低い。また「籾痕土器」にしても同じである。

また水田痕跡が見当たらないことを問題視する考えもあるが、陸稲栽培だったかもしれない。ところが、この地方から稲のプラントオパ-ル(稲の葉のある種の細胞に溜まったガラス成分〔珪酸体〕が地中から掘り出されたもの)が発見され、水田の畦なようなものが発見された。間違いなく「稲作」が行われていたのである。

1999年、今度は岡山県の「朝寝鼻遺跡」から稲のプラントオパ-ルが発見され、6400年前に「米」が存在したことが判明した。

これまでは朝鮮半島から朝鮮人(弥生人)が農耕技術を持って渡来して、日本に「稲作」を広めたと言われてきた。それが縄文人がすでに農耕技術を持っていたことが確実となった。

ただ、これが「朝鮮半島」経由であることは否定はされてなかった。

しかし、最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっている。
以下は「松尾孝嶺」の『栽培稲に関する種生態的研究』をそのまま掲載したい。
『農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。

① 遺伝子工学の分野からの研究の成果、

② 支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査

だ。
この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。
このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。
NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。
次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。

往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

 

 

〇 岡山市では、6000年前の稲のプラントオパールが出土し、形状のそろいから、栽培種と判断されている。

〇 滋賀県守山市の下之郷遺跡では、紀元前2世紀のモミ300粒が見つかり、DNA分析の結果、水田用温帯ジャポニカと、焼き畑用熱帯ジャポニカだったそうで、これは稲の適性を知った上で、収穫時期の調整や、冷害、干ばつなどに対応していたのでは?と・・・・

〇 奈良、平安の木簡には、稲の品種が十六種類、記されていた、木簡には、品種名のほか、作付時期と見られる日付や、稲を早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)に分け、季節に応じて栽培していた。